関西インディミュージック研究会

関西でインディミュージックについての理解を深めることを目的としたリスナー中心の集まりです https://twitter.com/INDIE_BE

美術観賞の考え方で音楽を読み解く

 

 

年明け初めてのブログにしては大げさなタイトルとなりましたが、私自身が美術鑑賞の入門者ですので、気軽に読んでくだされば幸いです…!

 

芸術の理解(観賞)となると「君が感じたままが全てだ!」などの感覚を優位とする言説を頻繁に目にします。

当然、前知識もなく感覚的にストレートに認識して楽しむことのできるのも芸術の面白さのひとつではありますが、自分にとって「異物」とされるモノを受容していく過程にあらわれる観賞の面白みは、感覚的観賞のみで得ることはできないように思います。

 

感覚優位派の方々の大前提である感覚器官がもたらす直感的認識は、しばしば我々を欺くことがあります。認識のパターンを逆手に取ったトリックアートなどはその典型ではないでしょうか。衆知のことだとは思いますが、自分が「見た・聞いた」そのままのが、そのモノに対する正しい認識であるとは言えないのです。しかし、日常のレベルではその感覚優位派の意見が広く受容されているように感じることが少なくありません。

 

なんとかそういった観賞を打破できないかと思っていたところに、現代美術鑑賞の入門書に出会いました。その考え方は音楽の鑑賞にも大きく通ずるものがあるように思えましたので、研究会にてその内容を伝えたところ「ブログにしてみては?」との提案がございましたので、拙いながらもここで少しブログにするにいたりました。

ではグダグダとしたことは置いておいて早速…!

 

第一に、「地」と「図」の関係から絵画は成り立っています。

「地」とは絵画における背景です

「図」とはその背景のに描かれた物体、対象物です(例えば、リンゴなど)

 

例えば、『モナ・リザ』などは中心に描かれた女性が「図」であり、それを補助するものとして、背景として「地」があります。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ec/Mona_Lisa,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched.jpg/200px-Mona_Lisa,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched.jpg

 

 

  そういった「地」と「図」の関係が曖昧になっていくところに、現代的な絵画の面白さがあります。分かりやすく言えば、印象派の絵などがそうなのではないでしょうか。(1940年代後半のアメリカ抽象表現主義などもある)

http://www.hakkoudo.com/wp-content/uploads/2012/07/c9a938e42ef142aae68f6a553f278d26.jpg

 

この考え方を音楽に援用してみます。

私はこれを音楽に置き換えて考えてみるならば、

「地」は伴奏部分

「図」は主旋律(メロディ)

と考えることができます。

 

所謂ですが、基本となるカタチはポップミュージックの特徴が典型的にあらわれたアイドルソングなどがわかりやすいと思います。

モーニング娘の名曲(凝りまくった間奏のアレンジが、つんくの手によるものなのか怪しい…)



「図(メロディ)」を支えるカタチで「地(伴奏部)」が存在しています。

あくまでメロディが「中心」で、他の要素(「地」となる部分)はそのメロディを補助する存在です。

 

 

ここでもう少し発展して、インディミュージック My Bloody Valentine (以下マイブラ)の『Loveless』(金字塔!) をこの考え方から観賞してみましょう。

 

Loveless』の魅力がご理解いただけたでしょうか?(言うまでもなく名曲…)

 

Loveless』の何がスゴいのかを言語化するならば、ポップミュージックにおける、「地」と「図」の関係を曖昧にしてリスナーに提示したことだと言えるのではないでしょうか。

 

同じ初期シューゲイザーバンドでも、Ride (再結成おめでとう!)は比較的メロディがはっきりとしているのに対して、マイブラのメロディは、極めて「伴奏的」(つまり、「地」役割に近い)であると言えます。

 

ケヴィン・シールズがモノラル志向し、「一つの塊として音を聴かせたかった」との発言をインタビューで目にしたことがあります。あの発言から、「地」と「図」の関係を曖昧にした音楽を創り出したいというケヴィンの意図を読み取ることができます。

 

また、ミニマルミュージックの巨匠、スティーヴ・ライヒにシンパシーを感じたという発言もありましたが、同様の意図(「地」と「図」の関係の曖昧さへの探求)だと思います。

 

あくまで「ポップミュージック」を例にして参りましたが、クラブミュージック(ビートミュージック)の面白さも「地」と「図」の関係から読み解くことができると思います。

 

ビートとウワモノも、どちらが中心(「地」と「図」の関係)かが極めて曖昧です。

それらは、相互に依存しながら、同時に進行していくような感覚を受けます。

アンダーグラウンドのクラブミュージックシーン、

DJ Shadow に始まるとされるインストゥルメンタルヒップホップ、

フライングロータスを代表とする「L.Aビート」、

まさに今に注目を集める 現代ジャズ 「Jazz The New Chapter 」

 

それらの流れに共通しているのは、「図(メロディ)」を補助する要素でしかなかった「地(メロディ以外)」が「図」の世界を浸食し、それぞれの役割が曖昧にされていることだと思います。

 

ここでインディミュージック研究会らしく、インディミュージック創始者、ヴェルヴェットアンダーグラウンドをその考え方から読み解くならば、彼らの囁くようなヴォーカルスタイルは「地」の役割をも担った「図」と考えることもできます。後のポストパンクでの音階を無視したようなヴォーカルスタイルは、それが更に発展した結果と見ることができるのではないでしょうか。

 

そして、それぞれが曖昧となったそれらが執拗に繰り返されることで 、素材そのものの質感(テクスチャー)へと注意が向けられることとなりました。(これは原雅明さんが語っておられることでもあります。)

 

今回は、美術における「地」と「図」の関係から音楽を鑑賞するという試みでしたが、美術の観賞方法は、その他にも…

 

サンプリングミュージックにおける作者性の問題は、ポップアート、コラージュアートにおける作者性の問題から考えることができます。

 

Dubに始まり昨今のヒップホップ、インダストリアルまでも繋がる、音の質感(テクスチャー)への着目は、現代美術に置ける素材への注目と重ねて考えることができます。

 

ノイズは、「地」と「図」の関係によって規定される芸術を極端なまでに嫌ったカラーフィールドペインティングとの関係から読み解くこともできます。コンセプチュアルアートとしても考えられます。音楽の究極的抽象のカタチと考えることもできましょう。

 

 このブログを書く私自身が、現代美術鑑賞の入門者も入門者ですが、「音楽鑑賞論」というのはあまり目にすることがなく、現代美術の観賞方法、美学などを少しかじった際に、「これは音楽の観賞にも十分利用出来るものだ」と思い文章にしてみました。

 

これを読まれた皆さんが、音楽を楽しむひとつのキッカケとなれば幸いです。

 

反響があれば、また記事にしてみます!!

 

今回はここまでです。